良妻賢母はロールモデルか?

「良妻賢母はロールモデルか?」というのをテーマにした番組をみました。といっても地上波ではなくソーシャル経済メディア(有料)。バリバリ働く編集者や芸能人、子供を全員東大にいれた主婦などがゲストに招かれ、「良妻賢母」という言葉への異論、受けるプレッシャー、また、家事分担についてや女性の仕事差別などなどを討論するというものでした。

私は「良妻賢母」という言葉は現代のワードじゃないと思っています。むしろもう歴史上の言葉ぐらいで認識して、もはや議論することさえないと思っています。

よく「料理を妻に押し付ける問題」が雑誌の特集記事になりますよね。私も、子供が小さいときはそう思っていました。「何で私ばっかりしなくちゃいけないのかん」って。私が仕事で遅くなっても、家族は悠々とテレビをみてます。「ごめんねごめんね~、すぐごはん作るからね~」と謝っていました。夫とはものさしや習慣が違うだけで、娘は私の育て方の問題ってだけですけどね。たいていはあまり言わずに悩むということになってしまっていました。

いま振り返って分析すると、その悩みの正体には2つの要因がありました。

ひとつは「対象者」問題。私が料理をするのが当然だと考えている相手。相手は何もしない上に、作っても感謝もされない。(感謝に関しては相手に求めることではないと今ではわかりますが)さらに子供は手伝いもしない。相手がいるからイライラするのです。近所のできるママたちも比較対象者といえます。主婦の友人から「夜ごはんが遅いって子供はおなかすかない?」って言われただけで無駄に傷ついたものです。それぞれのものさしだなっていまはわかります。

もうひとつは、良い妻、良い母問題。そうありたいと理想があったこと。自分自身にそれを課していたのです。届かないのに無理して目指したり。自分ではない自分になろうとしていたのです。自分の母がやっていたくらいはやってあげないとと。

17年ほど前、桧山タミ先生から料理を習い始めて、その悩みからだんだん解放されていきました。不思議ですよね。「なぜ私だけが料理をしなくちゃいけないのか」と思っていたのに、料理を習うことで解放されるなんて。

解放されたのは、私にとって料理が楽しく思えたこと、料理を習うと料理が簡単になったことです。簡単になった、というより簡単にできるものが増えたこと。もうひとつは師匠から「料理はがんばって無理してやるものではない」と教わったことです。「料理には知らずに心がはいりこむから、なんで私がやらなきゃいけないのかって怒って作る日はさぼんなさい」と。

料理は家族の健康のため、おなかすかせないように作るだけ。疲れないように最短距離でやろうと決めました。
そうしているうちに、会社を経営しながらでも、どう家族のバックアップができるかを私らしく無理なく考えられるようになりました。

料理に関しては道具屋をやっていることもちょうどよかったのです。よい道具があればおいしくでき、私自身が豊かな食卓をもつことで満足感が高くなっていったのです。家族に対してのイライラはほぼなくなりました。いまでは料理は私の特権なので私にまかせてほしいと思うほど。昔の私に言ったらびっくりするかもしれません。

もちろん社会全体で夫婦や家族の「家事分担」を目指すのは当然のこと。男だからも女だからもありません。もちろん性別に限らず得意分野はあるでしょう。多くの男性が料理の片付けは苦手だし、料理のごみ集めもしたがらないでしょ。私も整理整頓が苦手。お互いに尊重して助け合うよういしないと家事はまわりません。

「良妻賢母」なんて、言葉で押し付けられるプレッシャーには動じず、何も目指さず、だれとも比較しない自分でいましょうよ。そこから始めると、きっと多くの人が、料理は「ねばならないもの」ではなくなるのではないかと思います。