記号を得て情景を失う

「老いの場所から」を書いている臨床心理学者の下河辺牧子さんのエッセイの中に「記号を得て、情景を失う」というのがありました。

あまり知られていませんが、この方はオザケンこと小沢健二さんのお母様です。下河辺は旧姓です。本名は小澤牧子さん。これまた余計な情報ですが、「下河辺」という姓は下河辺一族からきているのでご興味のある方は。

本題に。

育ちざかりの3歳の孫が日々どんどん言葉を獲得していくのに反して、70を過ぎた著者は生き生きと場面こそ浮かぶものの「あれあれ、なんだっけ?」という具合に単語が伴わなくなっている。「記号的」な言葉遣いが苦手になる。その加減がちょうど3歳の孫と同じくらいだ、というおもしろい内容です。

孫は言います。
「これ、鉛筆を危なくするもの。鉛筆を人に刺さるようにするんだよ。」
もちろん鉛筆削りのこと。「尖らす」という単語を知らない3歳は、物騒でつたない言葉で説明します。

一方、本人(著者)も孫と同じように、
「ほら、あのいい匂いの花。はじめ紫であとで白くなってくるの、、なんでしたっけ?」と仲間に尋ねて盛り上がたりします。

9歳の孫娘もでてきます。
「おばあちゃん、昨日かおととい食べたサクサクッとしたあのお菓子、まだある?」

そこで著者は思うのです。

生き物にとってだいじなのは、体験や状況そのものの記憶のほうで、記号化された時間の記憶のほうではない。
老人や子供が状況的表現のもとに暮らすという大らかさが、あらためてすがすがしく自然な姿に思われてくると。

そんな私も少々早い気もしますが、40代半ばを過ぎたあたりからよく記号化された言葉を忘れます。笑)

私だけかと思いきや、ひさしぶり集った同級生もみんな同じことを言っていたので、ごく平均的な老いの入口だと納得。仕事をしていると困ることもあるけれど、下河辺牧子さんの感じ方を読んで、ため息をつかなくてもいいんじゃないかと明るくなれます。

「この前ね。あれ食べたよ。ほら、日本海側で獲れる有名な魚。高級な魚でさ、油がのっててすごく美味しくって。」と私。
「え、なんですか?」とスタッフ。
「塩して焼くだけでびっくりするほど甘くて柔らかいのよ。」
「え、なんでしょうね。」
「半分は翌日煮て、それがもうめっちゃ美味しい。赤っぽい魚よ。私も生まれて2回しか食べたことない。
ほら、以前、テニスの選手が一番好きな魚って言ったやん。」
「あ、錦織圭ですか。あ、わかった。のどくろですね!」
「そうよ、それ!のどぐろのどぐろ。」

記号を失ったとしても「美味しい」とか「嬉しい」とか「感動した」とか自由に状況が浮かぶか、そしてそれと誰かにと共有できたらまた楽しい。記号に踊らされず、せまりくる不自由さを気にも留めなくてもいいんじゃないでしょうか。

幸せや豊かさは、記号でなく記憶そのものですから。