おうちごはんは裸の心で

福岡は数年に一度の寒気だそうです。昔はこの程度はよく降っていたんですが、今は珍しいことです。しかも今日はかなり寒いっ。

おうちごはんは裸の心で

あいみよんの「裸の心」という歌があります。いい表現ですね、裸の心。

ツイッターなどを見ていると、「家族に夕食を作るのが面倒」「なぜ私がつくらなきゃいけないのか」という方が意外と多いなぁと思います。コメントはしませんが本音は「もったいないな」と思ってます。料理をしないのがもったいないのではなく、料理を「犠牲」だととらえるのがもったいない。そりゃたまには面倒だなっていう日も私にもありますが、そもそも「料理をすること=犠牲」だととらえるともったいない。「愛情をもって」とかそういう強制ではありません。

ほとんどの人たちは大人になって自分んちの料理を思い出すとき、「母さんの手間暇かけた料理がうまかった」と思いだすわけではありません。逆に、高校時代に毎日持たせてくれた具が押し込まれた「爆弾おにぎり」だったり、実家のなぜかおいしい「味噌汁」だったり、甘い「肉じゃが」、芋が煮崩れた「カレー」など、意外と普段の繰り返し食べた料理が多いです。毎日慣れ親しみ、当たり前のようにでてきた料理の味を覚えているんですよね。

それは料理の性質が「作る人と食べる人のこころをつなげる」という側面があるからと思います。

作るほうが手間暇かけて「どうだ!」と出す料理は、食べる側は知らず知らずにしらけてしまっているのです。あいみょんの言葉を借りるなら「裸の心」で簡単に作ったほうが、お礼を言わせようとして作る料理(犠牲を払ったと感じてつくった料理)よりはるかに心に残る、と思います。

SNSではきれいに飾ったおうちごはんの写真が次々にアップされます。ああいうのをみると、「自分もここまでがんばらなきゃ」とか思っちゃう人がでてきますよね。キャラ弁はもともと「食べない子供が少しでも食べてくれるように」や「食べるときにママはいないけど楽しく食べてくれるように」と作られているわけで、それを通り越して「自慢」が優先されているように感じると、私はなんか寂しさを感じます。子供たちは自慢を食べてるんですから。

だから普段の料理は「裸の心」でとりかかったほうがいい。無理して頑張らず。きばらず。料理が子供の情緒を育てるなんて専門家がいうのは(あんまり好きな言い方ではないけれど)、「おいしさ」とか「ちゃんとした料理」でなく、「あいみょん」にあるのです。笑)それが本質。ちなみにあいみょんは料理はしないとある番組で言ってましたけどね。笑)

お礼なんて言ってもらわなくていいと思ってます。相手の生存と健康を考えて作ってるんですから。(とはいえ、素直においしいと思ったらお礼をいってちょうだいよ。笑)

裸の心になれるか。時間ないなら手間をかけずに作っていいいんです。そして食卓では笑顔で。

私的には「そんな作るの面倒ならボンカレーでもよくない?」って思います。ただそれが続くと、保存料が子供の体によくないかもと思ってやめる。それも裸の心、かな。